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真田と北条が命がけで望んだ沼田城の側を通る街道とは?(『真田丸』を見て126)

『NHK大河ドラマ 真田丸』22回放送『裁定』で描かれた沼田裁定に限らず、利根川薄根川の合流点の北東、約70mほどの崖の河岸段丘台地上にある沼田城は、守り易く攻めにくい天然の要塞です。
沼田は、上野(こうずけ)と越後の国境にあり、北関東の要衝となる軍事上の重要拠点として上杉氏後北条氏武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となりました。
以上のような記述はネット上のあちこちで見ることが出来るのですが、そうなるには当然越後から関東南部に至る道、つまり街道がなくてはなりません。
とことが、なぜかその街道について触れられたページが見当たらないのです。

そこで今回は、沼田城が重要となった当時に街道について記したいと思います。
街道と聞くと、江戸時代の街道はこんな感じ
江戸時代の街道
江戸時代の街道
私達でも何となく知っていますよね。ですが、戦国時代の街道となると全くく知りません。
以前当ブログでは、織田信長が本能寺の変において討死したおり、安土城に居た信繁らは、明智軍から逃れ、真田の郷へと逃げるのに使った東山道をご紹介しましたが、それ以外の街道ついては触れませんでしたので図で見て頂きましょう。


戦国時代の街道 戦国時代の街道

どうです、中部あたりの街道が微妙に違いますよね。とはいうものの、肝心の越後から上野の沼田を通り,、関東南部へと抜ける街道の名が記入されていませんので別途調べました。
それは三国街道(みくにかいどう)と言います。
三国街道は、中山道の高崎(群馬県高崎市)から分かれ、北陸街道寺泊新潟県長岡市寺泊地域)へ至る街道で、三国峠関東越後を結ぶ交通路としてきわめて古くから利用されており、上杉謙信の関東遠征の際に利用された。主要街道としての三国街道は、近世(江戸時代)に参勤交代に利用されるようになってから重要視されるようになった。
といった程度の記され方です。
なんだか江戸時代にならなけば重要でなかったのか?と思ってしまいますよね。なので別のページを見ましょう。
 

三国街道は古代からの要路であり万葉集(8C.成立)に三国山が詠われている。天台宗の僧、堯恵[ぎょうえ](1430~?)は飛騨から善光寺→三国峠→草津温泉→武蔵野、相模に至り、その後再び三国峠を越え柏崎に戻った(1486)。翌年にも三国峠を越えている。

知る人ぞ知る北国紀行はその旅行記だそうです。
ちなみにこの街道の通る地域は豪雪地帯なので、江戸時代でも冬季の通行は困難を極め、馬が仕えず大変だったようです。
それでも参勤交代や行商などにおいての重要性の他、何と言っても越後の佐渡では小判などの貨幣を造るにも重要な金を産出したので、その運搬道としても重要でした。

そして戦国時代、越後の戦国大名長尾景虎(上杉謙信)は、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政から正式に関東官領職を譲られたのは1561年のこと。この前後に謙信の越山(三国峠越え)は十数回にも及んでいるそうです。
三国街道
三国街道

これでは沼田の位置がよくわかりません。仕方ないので改めて自作した地図がこれです。
三国街道と周辺の真田の城
三国街道と周辺の真田の城
これで沼田城はもちろん、その支城の名胡桃城、三国峠、岩櫃城の位置もお分かり頂けるでしょう


かつて真田昌幸が仕えた武田信玄がこの三国街道を南下して北条を攻め、、上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として名胡桃城を築き、武田家滅亡直前には武田勝頼を岩櫃城へかくまうことを考えた(ドラマでは)。

そしてその後、織田、上杉、真田、北条、徳川が沼田城を巡って争い、北条はこの城に固執するあまりに、滅亡へと至ったのです。
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