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秀頼の誕生後も秀長が健康で長生きなら、ひょっとして豊臣は(『真田丸』を見て151)

豊臣政権において、秀吉は隣に配して重用し、秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物として短期間で急成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など有力外様大名を多く抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だったとされる吉の実弟:豊臣秀長は、秀吉の信頼厚く、その片腕として辣腕を揮い、豊臣政権において内外の政務と軍事の両面で活躍を見せ、天下統一に大きく貢献したとされています。
しかし、1589年7月9日(天正17年5月27日)に棄(すて)が誕生し、1589年2月25日(天正17年1月21日)に聚楽第落書事件が起こってからは、行け行けドンドンの豊臣政権に陰りがさし、その後の1591年2月15日(天正19年1月22日)には秀吉より先に病死してしまいます。

もしも茶々が生んだ棄や秀頼の誕生により秀次が切腹となり、揺れ動く豊臣政権の中で、秀長が秀吉亡き後も健在であったなら、ひょっとしたら大阪城は史実にあるような終焉を迎えず、徳川の天下は無かったかもしれません。

秀長は秀吉と同様に、もとはと言えば尾張の出身なのですが、関西で生まれ育った人々は、家康によって和歌山に幽閉されて大阪で活躍した信濃出身の真田信繁よりも、知っておきたい武将とは言えないでしょうか?
なぜか、もちろんその理由の一つは、秀吉に信頼され、秀吉に対して苦言を呈することのできる唯一無二の存在だったことですが、他にも理由が有ります。
それは、最終的には官位従二位権大納言となって大和紀伊和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となるに至り、大和大納言と尊称された人物だからです。

果たして秀長は、どのような人物で、豊臣家にかかわる人物とどのように接していたのでしょう。
豊臣秀長 - Wikipediaには秀長の人物像として、
「秀長は温厚、真面目、寛容であり、豊臣秀吉の名補佐役であった。秀長は縁の下の力持ちの存在であり良きブレーキ役でもあった。そのため秀長が死去すると秀吉の前途には暗雲がたれこめ始め、秀長の死去から1か月後には千利休が切腹、さらに朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させ、後継者に迎えていた秀次一族を虐殺するなど豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていく事になる。
もし秀長が長命を保っていたならば家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと言われる事が多い。秀長の死は平氏政権平清盛重盛を失った状況と同じとされている。」と記されいます。

現代の世界の中での日本の繁栄を思う時、徳川が最終的な天下を取ったことは幸運だったと思うべきだとは思います。思いますが、上記のような秀長の手腕により、豊臣による政権が長期に渡った結果の現代日本も、見てみたい気がします。
秀長の助言のもと、秀次と秀頼は協力しあい、善政をしいたでしょうか?
うーん、その場合、現代の気さく(フレンドリー)でおもろい大阪人がたかびしゃで図に乗った大阪人になるのではないかと不安になります。
やっぱり大坂はナンバー2でええんやと。

さて、冗談はこれくらいにして、真面目な話をしましょう。

秀長の軍事面と政治面での詳細な活躍については、興味のある方は個々にお調べ頂くとして、特に気になった点は、
天正12年(1584年)、徳川家康との間で小牧・長久手の戦が起き。秀長は守山に進軍し、家康と連合を組んでいる織田信雄を監視した。信雄との講和交渉では秀吉の名代として直接交渉に赴いているこの戦いでは甥の羽柴秀次が失態により秀吉に激しく叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。
天正13年(1585年)、紀州征伐では、秀次と共に秀吉の副将に任命される。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊和泉などの約64万石余の所領を与えられる。同年、和歌山城の築城時に藤堂高虎を普請奉行に任命する。また紀州征伐で豊臣軍を悩ませ続けた湯川直春を、大和郡山城で毒殺したという。
同年6月、四国攻めでは病気で出陣できない秀吉の代理人として、10万を超える軍勢の総大将に任じられる。しかし長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏宇喜多氏の合同軍のため侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送った(『四国御発向事』)。
同年閏8月、長宗我部元親を降した功績を賞され、播磨国、但馬に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入る(かつての領主・筒井定次伊賀国へ転封)。長の領国である紀伊・大和・河内地方は寺社勢力が非常に強く、決して治めやすい土地柄ではなかったが、諸問題の解決に時に苛烈な処置を辞さなかったものの、後に大きな問題も残さなかったところを見ると、内政面でも辣腕であったことが伺える。現に大和入国と同時期に盗賊の追補を通達(廊坊家文書)、検地実施(諸家単一文書)、全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多くの政策を実施している。また、大和の陶器・赤膚焼を開窯するなど広い政策も行った。このころ豊臣の本姓を与えられる。」というウィキペディアの記述の中の赤い帯線を引いだ部分の記述です。

その内容から、秀長は将来の豊臣家をけん引する秀次と出陣してそれ以前の秀長の失策をリカバーして一族の調和と次世代の成長を助ける裏方役を見事にこなし、自らの治める領地の産業発展を促す政策を行っていますが、その一方で領地の問題解決には強行手段に訴える側面もあったようです。
しかしそれにより領地が治まりをみせると、強硬なやり方が後々に遺恨とならないための政策を次々と実施し、領民に恩恵をもたらす善政を速やかに行ったことが伺えます。


 もしも秀長が秀吉以上に長生きして健康でいたなら、

聚楽第落書事件や千利休の切腹、豊臣秀次の切腹、朝鮮出兵などの秀吉の狂気の行いを阻止し、秀吉亡き後、秀頼と秀次の協力関係により、政権は長期化し、善政をしいて、現代においては関西が首都として日本の繁栄はあったでしょうか?
思うに、関ケ原の戦いでの豊臣方が勝利しても、家康を断罪することなく関東の治世を任せられるほどの度量と抑止力を備えた政権として豊臣政権が存続し得たなら、家康の治める関東もその手腕から繁栄し、豊臣家のおひざ元の関西と共に、ダブルスタンダードとなって今日まで発展し、現代よりも広域に及ぶ都市繁栄が有り得たかもしれません。
ただし、昭和初期に勃発した世界大戦の中で、当時の昭和日本よりも国力を持つがために、大日本帝国憲法のもと、強硬に戦線を広げ、長くアメリカをはじめとする大国との交戦が続き、日本本土における数多くの空襲や原爆投下により、日本は壊滅し、終戦後も長く大国の属国として疲弊することになってしまうかもしれません。

ちょっと空想を広げ過ぎたあげくに、ネガティブ思考が過ぎる結末に終着したでしょうか?

豊臣秀長
千葉 哲也さん演じる豊臣秀長


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