秀吉が棄を失い、二度と子を失うまいと第二子を拾としたって本当?(『真田丸』を見て160)
- 2016/07/17
- 14:12
後に豊臣秀頼となって秀吉の後継として徳川家康と対峙し、大阪夏の陣にて生涯を終える淀殿の第ニ子:拾(ひろい)は、『NHK大河ドラマ 真田丸』第26回放送『瓜売』で誕生を描かれ、第27回放送『不信』でその誕生で豊臣家に不協和音が広がって行く様子が描かれました。
ご存知のように秀吉と淀殿との間に生まれた?第一子は幼名を棄(すて)と名づけられましたが、数え年3歳で亡くなりました。
その後再び淀殿は拾(ひろい)を生むのですが、どちらもおかしな名前ですよね。
この事に疑問を持って調べた方は少なくないと思います。
そしてたどり着く答えとしては、「捨て子は元気に育つ」という験を担ぐ(げんをかつぐ)ことで我子が無事に育つことを願ったため。という記述だったはずです。
確かにそう言われると、現代とは違って衛生面や栄養面などにおいて新生児の生存率が非常に低く、幼児の内に他界する事も多かった時代にこうした名を付けるのは至極当然のように思えます。
しかしです。
はたして棄(すて)という名は、本当に元気に育つことを願って名づけられたのでしょうか?
第二子はなぜ拾(ひろい)と名付けられたのでしょうか?
棄(すて)と名づけられた理由に沿って考えれば、拾(ひろい)も「捨て子を拾う」という言葉を連想し、同じ理由で解釈することが出来ます。
ですが、当時の有名な武将の幼名を見比べてみると、これはやっぱり違和感のある名です。
実例を幾つか上げてみましょう。
【武将の幼名例】
真田信繁 弁丸(幼名)
真田昌幸 源五郎(幼名)
真田信之 源三郎(仮名)→幼名不明。次男の幼名:弁丸が分かるのに嫡男の幼名がなぜ不明?
真田信綱 幼名不明→昌幸の長兄。本来の嫡男。
武田信玄 太郎(幼名・通称)
徳川家康 竹千代(幼名)
織田信長 吉法師(幼名)
上杉謙信 虎千代(幼名)
北条氏政 松千代丸(幼名)
今川義元 芳菊丸(幼名)→
といった具合に、ことさらに捨(すて)・拾(ひろい)などと我子を卑下するようなおかしな幼名は用いられていません。おかしいでしょ。
(一言:問題はこのような幼名を誰が考えたか、推奨したかです。秀吉本人?淀殿?それとも家康の画策?いずれにしても、豊臣政権の明るい未来を担う名ではないですね。)
無理やり理解しようとすれば。秀吉に長らく子が授からなかったために、殊更に思いを込め、験担ぎをしたと解釈出来なくもありませんが、ひょっとすると、捨(すて)・拾(ひろい)の幼名は、彼らが共に世を去った後に、ある意味こじ付けで、「捨て子は元気に育つ」という、験担ぎが真しやかに広まったのではないでしょうか?
そこで、こんなインチキ臭い験担ぎを無視して普通に捨(すて)と拾(ひろい)の幼名を考えて二人を見比べてみると、
捨(すて)は幼くして亡くなったために、秀吉あるいは神から見放された子=捨てられた子であり、
拾(ひろい)は、人生晩年の秀吉にとって、もう次の子は望めまい。と思っていたところに生まれた子=拾いもの子だったから。
と考える方がしっくりきます。
仮に、豊臣家が滅び、徳川の天下となった江戸時代に、殊更に豊臣政権の権威をおとしめ、徳川政権を称えるための幼名であったと考える時、
茶々が後に淀と称した時、それを淀殿ではなく、淀君と呼んで、不浄の女性(遊女)を連想させる呼称を用いたことも辻褄のあう話として理解できるのですが、皆さんはどう思われますか?
ちなみに『捨』の意味を調べてみると、
しゃ【捨】[漢字項目]の意味 - goo国語辞書には二つ目の意味として「社寺や僧に寄進する。喜捨。」という記述があります。
また「すてる」という意味の漢字:棄と捨を合わせた「棄捨」の単語の意味は、「捨て去る。」という意味があります。
そこで改めて秀吉の二人の子の幼名を善意で解釈するならば、現代のように、科学が発達していなかった当時、人の誕生とその生死は、神や仏にその無事を願うことしか出来なかったために、その命が絶たれる時、人は「天命」という言葉をしばしば用いました。
その意味で、秀吉は、棄(すて)の誕生に際し、その健やかな成長を願って喜捨、すなわち社寺や僧に寄進することで、その加護を得ようとしたのかもしれませんね。
で、結論です。
捨(すて)・拾(ひろい)というおかしな幼名が、なぜ用いられたのかについては想像の域をでません。ですが皆さん、我が子にはちゃんとした名前をつけましょうよ。それが一番です。
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