ドラマでは病死して隠密裏に葬られた豊臣秀保、しかし実は・・・(『真田丸』を見て163)
- 2016/07/17
- 14:48
NHK大河ドラマ 真田丸』第27回放送『不信』では、拾(ひろい:後の秀頼)の誕生により、既に秀吉の後継として関白となっていた秀次の立場が急激に危うくなって行く間に起こった有る事無い事が描かれました。
そんなある事無い事を描いた中で、豊臣秀保の病死は、実際に有った事です。
しかし、その描かれたシーンが史実かどうかは甚だ疑問です。
ドラマでは、棄を失った後に改めて授かった拾(後の秀頼)の健やかな成長を望むあまりに、秀次の実の兄弟である三男:豊臣秀保が、
拾(後の秀頼)が棄(鶴松)の亡くなった年齢と同じになった年(文禄4年=1595年)に病死したことを殊更に不快に思い、雨の降りしきる中、運搬用の台の上に棺桶が菰(こも)を被せ、秘密裏に葬られる(密かに棺桶を運び出す。)映像が放映されました。
まずは秀保の死にかかわるドラマのシーンをご紹介しましょう。
秀次は伏見城を築城するための図面から、伏見城が秀吉の隠居するための城ではなく、祭りごと(政務)を行うための城であることを知り、「なにゆえ叔父上は(関白である)私を信じて下さらぬ?」と疑心暗鬼に陥ります。
ドラマの上では、そうした伏見城の有り様は、秀次の政務をいくらかでも助けんがためで、そうした秀吉の秀次に対する心づかいが裏目に出て、秀次は秀吉の心を疑いはじめたという設定になっています。
そこで信繁は、秀吉に対して秀吉と秀次の心のすれ違いを埋めるために、両者が直に話し合うよう秀吉に進言しますが、「全てはあやつの心の弱さがもとじゃ。」と、返って秀吉の不興をあおる結果となってしまいます。
そして秀保の死にまつわるシーンです。
ナレーション:「更に秀次に追い打ちをかける出来事が起こった。長らく病床にあった弟:大和中納言秀保が、17(じゅうひち)という若さで他界する。」
この時出演者のセリフはなく、秀保の病床の側で、秀次がその最後を見届けるシーンが映し出され、場面は秀保に対する秀吉の対応を描く場面へと移ります。
秀吉:「葬儀は隠密に済ませろ、事を大きくしてはならぬ。豊臣の者は誰も参列してはならぬ。」
三成:「よろしいのですか?」
秀吉:「むしろ無かったことにしてしまいたいくらいじゃ!」
場面は信繁と三成の会話へと移ります。
信繁:「何故、太閤殿下はそのようにお怒りを?」
三成:「今年で拾様は三つになられる。鶴松様が亡くなられたお年だ。太閤殿下にとって今年は不吉な年、それゆえ、今年は何事もなくお過ごしになられたかった。」
信繁:「そんな年に亡くなられた秀保様を、太閤殿下はお許しになられなかったという事でございますか?」
三成は無言でうなずきます。
代わって雨降る中庭の脇にある廊下を行く秀吉の後を追って、亡き秀保に対する仕打ちに抗議する場面です。
寧:「殿下、秀保はあなたの甥ですよ。数少ない肉親でぁなーですか?」
秀吉:「うるさい!」
寧:「せめて皆で見送ってやりませんか?」
秀吉:「あいつの罪は二つ。この年に亡くなったこと。そして将来、拾のために力を尽くさねばならんのに、それができなくなったことじゃ!」
寧:「だからと言って秀保を責めては、あの子が浮かばれません!」
秀吉:「その名を二度と口にするな!」縁起でもない。」
そう言い捨てて去って行く秀吉の後ろ姿を見送り、寧は極度の困惑を浮かべ、成すすべも見当たらずに息を吐きます。
そして土砂降りの雨の中、秀保の亡骸が入った棺桶が担ぎ出されるシーンが映り、秀俊(小早川秀秋)ただ一人が、秀保の亡骸の入った桶を見送り、頭を下げる映像の後、ナレーションが流れます。
ナレーション:「秀保の死に対する秀吉の冷たい仕打ちは、秀次を旋律させた。」
そして秀次が秀俊(小早川秀秋)の前で、秀吉の仕打ちに激怒する場面です。
秀次:「これでわかった。あの方は我らが邪魔なのだ。」
そう言い放った秀次は、手に持った扇子を、巻き上げられた御簾に叩きつけます。
ナレーション:「彼の不安は頂点に達した。そして関白秀次は、一つの決断をする。」
果たして実際はどうだったのでしょう?
しかし豊臣秀保については不明な点が多いのです。
豊臣秀保 - Wikipediaによれば、
「秀保(幼名辰千代たつちよ)は、天正19年(1591年)1月、13歳で、継嗣のなく死の床に就いた叔父・秀長の4、5歳になる娘・おきくと祝言をあげ、養嗣子として披露された。
同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、大和郡山城主となった。秀長の家老藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役を務めて、大和・紀伊2か国を継承し、和泉と伊賀の一部は収公となった。また従四位下参議近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜される。」
つまり秀保は、秀吉の良き助言者であり、片腕だった秀長の後継としてわずか13歳で従4位下参議近衛権中将となり、後に関白となった秀次と共に、幼い頃から秀吉の大いなる期待を担っていたということです。
実は養父の秀長には、嫡子たる実の男子がいましたが、幼くして亡くなっています。そこで新たに後継としての養子を、秀保がおきくとの縁組の話が持ち上がる以前に迎えていました。
ところが、秀長と同様に嫡子に長く恵まれなかった秀吉は、親族の血筋にこだわり、親族の血筋ではない仙丸に代わる秀長の後継として秀保をおきくの婿として強引に縁組みさせたそうです。
いわば秀長にとっては意に添わぬ後継だったのですが、そこまでしても秀吉が秀長の後継とした秀保の病死を、第27回放送『不信』の中での秀吉は、「縁起でもない。」と親族の出席も許さず、内々に葬ろうとしたと描かれたのです。我が子:拾の成長を望むあまりに。
寧ならずとも、酷すぎる話だと皆さんも思いますよね。
13歳の秀保が秀長の後継として秀長の4、5歳になる娘:おきくの婿となったのは、天正19年(1591年)1月、秀長が亡くなるわずか1ヶ月前のことです。
つまり秀保は、秀長が亡くなった時点で、秀保は仙丸の父:藤堂高虎の主君だったのです。
翌年の文禄元年(1592年)、秀吉が明国を目指しして朝鮮への遠征を行った文禄の役では、まず名護屋城の普請に参加、次いで兵1万5千を率いて参陣して藤堂高虎を名代とした配下の諸将は出陣するも、14歳の秀保自身は渡海せずに名護屋城下に陣屋を築いて滞在します。
秀吉は明国・朝鮮の征服がもしも適ったなら、日本の関白職に秀保か羽柴秀家(宇喜多秀家)のどちらかを任命するという計画を持っていたとされますが、遠征は失敗に終わります。
(一言:ということは、秀吉は本気の本気で明国の平定を考え、豊臣本家は大陸を支配するにふさわしい関白の上位となる新たな役職、例えば『大帝』や『皇帝』などいう最高位を設け、日本の本土は秀保か宇喜多秀家に任せようとしたのでしょう。)
そして文禄4年(1595年)4月、秀保は病を得て享年17で急死し、死後に大納言を遺贈されます。
秀長の死からわずか4年後のことです。
ドラマでは、秀吉が拾(秀頼)のために力を尽くさなければならいのに・・・と言った秀保の役割とは、秀吉と秀長のような主従関係を秀頼と秀保の主従関係に代替わりし、秀頼の右腕になることでした。
しかしそんな秀吉の目論見は秀保の急死により、拾(秀頼)の誕生からわずか2年後に破綻するのです。これにより大和豊臣は断絶します。
次回の第28回放送『受難』で描かれる高野山での秀次の自刃は、秀保の急死から4ヶ月後の1595年8月のことです。
しかして秀保は第28回放送『不信』で描かれたように秀次に看取られて病死した後、豊臣一族の参列も無きまま秘密裏に葬られたのでしょうか?
結論から言うと秀保の死因については諸説あり、不明だそうです。
ですが、秀次の自刃のわずか4ヶ月前の死であったことから、秀吉による謀殺ではなかったかとする説を支持する人は少なくありません。
ドラマにおいては兄:秀次に付き従う従順な青年として描かれていましたが、秀長の後を受けて治めた大和国郡山(奈良県郡山市)は、暴君であったとする伝承があります。
② 蛇が池 - 秀俊(秀保)が忍術師に「この池から大蛇を出して見よ」と命じた。忍術師が呪文を唱えると、空池が満ちていき、大蛇が出現して秀保を一呑みしようとしたため、秀保は慌てふためいて郡山城に逃げ帰った。そのため、家臣は二度と大蛇が出現しないように池底の穴を大石で埋めたという。
いかにも嘘っぽい話ながら、このような伝承があるのには、それなりの理由があるのでしょう。
普通に考えればその理由とは、秀保は病死したのではなく謀殺された。そんな噂が広がるのを恐れた豊臣家は、暴君だった秀保が謀殺であろうとなかろうと、死して当然の人物であったということを世に知らしめる必要性があったからと考えられます。
秀保の死因についての諸説とは、
① 秀俊は無双の悪人であったとし、科のない士庶を殺害したり、猿沢池や法隆寺の池など殺生禁止の場所で網を投げて漁をして、捕った魚を賞味したといった悪行で、ついに癩疾を煩い、吉野の十津川の温泉で湯治を行った。吉野川上流の上西川の滝の辺りを散策している時、秀俊は、数十丈の断崖より下へ、稚児小姓に飛び降りろとを命じた。小姓は(理不尽な仕打ちに)怒りを堪えきれずに、いきなり跳びかかって秀俊に抱きついたまま、深流に飛び込んで共に溺死したとする。
② 秀保は疱瘡か麻疹を患っていて、文禄4年(1595年)4月に病気療養の湯治のために大和の十津川へ赴いたとし、その病状は10日頃から悪化し、13日の夜には吉田浄慶、16日の夜には曲直瀬正琳などの医師の投薬を受けた結果、14日には一時回復を見せたが、再び15日の朝から病状が悪化。翌16日の早暁に病死した。病は天然痘との解釈もある
③ 謀殺
④ 小姓との心中
など。
いずれにせよ拾(秀頼)の誕生と秀次の自刃の間に秀保が急死したタイミングにより、当時から秀保の死因については色んな噂が存在したと思われます。
ところで、豊臣家における拾(秀頼)の誕生から秀保の死、秀次の自刃という一連の動きをこうしてみると、一つの仮説が思い浮かびました。
それは中国大陸と日本国をまたぐ豊臣による支配がならなかったがために、秀次や秀保は秀吉によって謀殺された。というものです。
大胆すぎる仮説かもしれませんが、これについては次のページで記したいと思います。
皆さんは秀保や秀次の死に何を思いましたか?
次回は、『秀吉の明国支配があれば、秀次や秀保は関白として』という仮説(『真田丸』を見て164)です。
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