『秀吉の明国支配があれば、秀次や秀保は関白として』という仮説(『真田丸』を見て164)
- 2016/07/17
- 15:30
『NHK大河ドラマ 真田丸』第27回放送『不信』では、秀俊が豊臣家から小早川家へと養子に出され、秀保が病死し、豊臣秀次が秀吉に対し不信感を抱き失踪し、次回作では自刃します。
秀次・秀保・秀俊の三人は、秀吉の子ではありませんが実の兄弟です。
しかし秀吉の実子として拾(後の秀頼)が誕生したことをきっかけに、上記のように秀次らの三兄弟の行く末は大きく変わってしまいます。
いったい彼らの将来はどのような理由で変わってしまったのでしょう?
もちろん秀吉の実子として拾(秀頼)が誕生したことに起因しているのですが、それだけでしょうか?
私には秀吉が明国の支配を実現していたなら三人の運命が大きく狂うことはなかったと思えます。
なぜか?ですって。
そのことを説明するために、まずは彼らの運命にかかわる出来事を以下のように順を追って書き出してみました。
1591年1月 秀保が秀長の後継となる
1591年9月 文禄の役への準備命令を諸侯に通達
1591年9月 棄(鶴松)の死
1591年末 秀次が関白に
1592年3月 文禄の役開始
1593年1月 小西行長らが独断で明国講和交渉開始
1593年8月 拾(秀頼)の誕生
1594年 豊臣秀俊が小早川家の養子となる。後に小早川秀秋に
1595年4月 秀保の死 秀頼数え3歳
1595年8月 秀次の自刃
1596年1月 秀吉が講和使者と謁見
1597年 明国講和交渉決裂 慶長の役へと
1598年 太閤豊臣秀吉の死 慶長の役終了
これによって何が言えるでしょう。
それは、秀次、秀保、秀俊の運命は、秀吉が明国の支配を目指した文禄の役を開始し、秀頼が誕生した後に大きく変わってしまったということです。
そして秀次の自決後に明国講和交渉は決裂し、慶長の役で再び明国を攻めたということです。
つまり三人の運命は、文禄の役が開始されますが、戦況は思うようにはゆかなかったために、明国との講和交渉が始まったのは、淀殿が拾を身ごもって後のことでした。
ですがもちろん秀吉は小西行長の講和交渉についてはまだ知りません。
そして拾を無事出産し、秀次らの運命が大きく変わってしまいます。
そして明国との講和交渉の決裂へとつながります。
明国との講和交渉決裂までの経緯については、
1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)には以下のような記述があります。
1592年 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)には以下のような記述があります。
【講和交渉】
秀吉はこの使者を厚く饗すとともに、次の7か条の条件を提示した。
1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。
2 勘合貿易を復活する。
3 日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。
4 上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。
5 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
6 去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。
7 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。
しかし、小西行長はなんとしても講和を成功させようと策謀し、明使節の沈惟敬と図って、明廷への国書を、秀吉が封建を求めて和を結ぶものにすりかえた。
明王からは、次の3つを条件として和好を約するとしていた。
1 日本兵はことごとく帰国する。
2 すでに封ずるも貢をあたえず。
3 朝鮮を侵すことなきを誓う。
1596年(慶長元年)9月1日に日本で使節の引見が行われた、翌日明王の国書を読み上げさせた秀吉は、その違いに気付いて激怒し、和約は破れて、即日再征の令がくだされた。
以前にもご紹介したと思いますが、1591年末に秀吉が秀次に関白を譲ったのは日本国の内政は秀次らに任せて、秀吉自身は明国攻めに専念するためでした。
秀吉はこの使者を厚く饗すとともに、次の7か条の条件を提示した。
1 明の皇女を迎えてわが后妃とする。
2 勘合貿易を復活する。
3 日・明両国の朝権をもつ大臣が誓詞をとりかわす。
4 上の条目を領納すれば、朝鮮を南北に分かち、朝鮮の北部4道と国都を返還する。
5 朝鮮より王子・大臣一両人を人質とする。
6 去年生け捕りの朝鮮王子二人は故国に帰す。
7 朝鮮国王の権臣が累世違却なき誓詞を書く。
しかし、小西行長はなんとしても講和を成功させようと策謀し、明使節の沈惟敬と図って、明廷への国書を、秀吉が封建を求めて和を結ぶものにすりかえた。
明王からは、次の3つを条件として和好を約するとしていた。
1 日本兵はことごとく帰国する。
2 すでに封ずるも貢をあたえず。
3 朝鮮を侵すことなきを誓う。
1596年(慶長元年)9月1日に日本で使節の引見が行われた、翌日明王の国書を読み上げさせた秀吉は、その違いに気付いて激怒し、和約は破れて、即日再征の令がくだされた。
以前にもご紹介したと思いますが、1591年末に秀吉が秀次に関白を譲ったのは日本国の内政は秀次らに任せて、秀吉自身は明国攻めに専念するためでした。
しかし戦況は思い通りにはゆかず、和平交渉が開始されるのですが、朝鮮半島からの通信使が聚楽第に訪れた際の講和条件を小西行長らが偽って秀吉に伝えたために秀吉は激怒し、再びの遠征として慶長の役が行われたわけですが、
思うに、秀吉は明国の支配がままならないことに腹を立てただけでなく、内心では明国の支配はまだまだ今の日本軍の実力では無理だと思ったのではないでしょうか?
もしも秀吉が、拾(秀頼)を淀殿が身ごもった時点で、秀頼が将来明国~日本本土をまたぐ領地の支配者になれるようにと考えていたとしたらどうでしょう?
秀吉は新羅への侵攻を実行する直前、棄(鶴松)の死によって秀次を関白としますが、その後に拾が誕生したことで関白譲渡を早まったと思ったとしても、明国の支配が計画通りにできていたなら、秀次、秀保、秀俊らにそれぞれ関白や重要な役職に就けても秀頼には大陸の領土を含めた支配者としての役職を与えられます。
しかし明国の支配が叶わないとなれば、豊臣家の支配は日本国のみとなり、秀次の関白職は拾(秀頼)に返してもらわなければなりません。
そこで結論です。
秀吉自身の余命が少ないことは自覚した上で、幼い拾(秀頼)に権力を譲るには、秀次ら3兄弟は、邪魔者でしかなかった。だから秀吉もしくはその周囲の誰かが秀次らを貶(おとし)め謀殺したのではないかと考えることが出来ます。
逆に言えば、秀吉が当初の思わく通り順調に明国を支配できていれば、秀次、秀保、秀俊らは、日本本土の内政を任され、秀次と秀保が短い命を終えることは無かったと思えるのです。
全ては秀吉の身勝手な拡大志向と我子可愛さの思いが、彼らに災いをもたらしたと。
そして秀吉は、その後の秀頼の過酷な死と豊臣家の滅亡を知らぬまま、明国攻めの途中で亡くなりました。
もちろん秀吉は豊臣家の滅亡を望んでいた訳ではありませんが、秀吉は寿命が尽きる間際に自らの手で、ただでさえ少ない豊臣の親族の大部分を死に追いやり、豊臣家を滅亡へと導いてしまったのです。
秀吉にとって、あこがれだったお市の方の忘れ形見:茶々を側室にし、悲願ともいえる嫡子を得たことはこの上もなく幸福なことだったのでしょう。
ですがその結果、秀吉が最も望まなかった豊臣家滅亡の原因とななったとは・・・・。
しかし最も不幸だったのは秀吉ではありません。
最も不幸だったのは、秀吉の思いに翻弄され、本来なら有るべき未来を奪われた秀次やその兄弟、親族であり、無実でありながら処刑された人々でした。
豊臣家は滅ぶべくして滅んだのです。
秀次が自刃した高野山金剛峰寺柳の間
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